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父の従軍日誌

 私の手元に、古びた1枚の写真がある。四つ切りの割と大きな物で、写真の下の方に万年筆で「ブロードウェイマンション」と説明書きがある。私はこの写真を他の数枚と一緒に、以前勤務していた会社の写真部の先輩から頂いたものだ。その時は、何とも思わなかったが、この「ブロードウェイマンション」が気になってきた。

 その後何かの機会に、ブロードウェイマンションは上海にあって、児玉誉士夫や川島芳子住んだ事もあると知った。解放前の中国には、上海を含め28箇所の租界があり、現在の上海にも、当時の建物がほぼそのまま残されていると言う。

 私は、ブロードウェイマンションについて調べていくうちに、「上海敵前上陸」(三好捷三著 図書出版社刊)という本に出合った。この本には、ブロードウェイマンションは登場せず、最後迄凄惨な戦闘模様の連続であった。

 昭和12年9月3日に上海の外港呉淞(ウースン)に投錨、上陸。上陸してみたら、岸壁には、一面見渡す限りの死体の山で、土も見えない位だったという。10日前に上陸した名古屋第三師団の将兵の変わり果てた姿だった。その犠牲者は1万人と言われている。
 「3日以内に羅店鎮の本体に合流すべし」という軍命令で、20キロ、戦争がなければ一日でも充分な行程だが、実際には30日かかり、著者のいた200名の中隊が20名に減少してしまった。そのうち、一緒に上陸した仲間は皆戦闘で死傷し自分一人となり、まわりはあとからの補充兵となってしまったのだ。

 食糧もひどく、輸送船では三度三度大根の切干しのみのおかず、上陸して六日間は食糧の支給が無く缶詰をあけると日露戦争時代のもので、臭くて食べられなかった話。ご飯を炊く水が無く、只でさえ臭いクリークの水を汲もうとクリークに行くと、中国兵の死体が異臭を放って浮いており、死体を押しやって、元に戻らないうちに水をすくって、ご飯を炊いたが、臭くてどうにも食べられなかった話。食糧の配給というので、行って見たらカンピョウばかりだった事。一方後方の旅団司令部では、車座になって宴会をやっていたこと。装備も日本の手榴弾は、日露戦争時代のもので、自爆して死傷者が出て、皆捨ててしまったこと。一方中国側は、手榴弾も最新式の優秀品、他の装備も優れたものだった。

 連日の死闘による疲労に加え食料不足でよれよれになりながら、さらに南京追撃戦で320キロの追撃に入ったが、赤痢になり、落伍して野戦病院に入れられ、一命を取り止める事ができたのだ。何回もの戦闘をくぐりぬけ奇跡的に生還出来たのは、彼の何としても生きて帰るという強い信念と幸運が重なった結果だろう。私は、この本から、したたかな生き方を学び、勇気を与えられた。


 一方私の父は、どんな戦争体験をしたのだろうか。私の父鶴吉は明治43年に生まれ、昭和47年61歳で他界した。この頃やっと父の時代、父の生き方に興味を抱くようになった。
 そんな時、小学5年生の私の長男が、夏休みの自由学習のテーマを考えあぐねていたので、「おじいちゃんの戦争体験について、おばあちゃんから聞いてそれをまとめてみたらどうか」と話した。私のヒントから長男は模造紙に地図を書き、母の話を書き入れた。母は、次のようなメモを息子に渡していた。

  昭和16年7月に召集で、市川国府台に入隊してすぐ爪と髪を渡され、それから満州の牡丹江に行き、その年の12月8日に大東亜戦争が始まる。それから半年位便りなし。初めてジャワより便りあり、大変うれしかった。それからどの位かジャワに居て、今度は日本に帰るので、シンガポールを通って来る間、時々アメリカ軍が出没していたそうです。そのまま満州に戻り、17年12月病気で日本に帰り、除隊になりました。もう少し満州にいたら、戦争に負けて、ロシアに連れて行かれる処でした。家に帰っても、空襲になると警備召集で、家には居られません。戦争は考えただけでも恐ろしいと思う。

  一番はじめは、北支応召。

 子供の宿題から、私は初めて父の従軍状況が分かって来た。さらに母に尋ねると、三冊従軍日記を出してきた。その三冊の手帳には、昭和12年の第1回目の召集から、16年の2回目の召集の分も、時々途切れているが、綺麗な字で克明に記録されていた。

叔父などに訪ねてみて、最初に父が召集されたのは、昭和12年7月7日盧溝橋事件のすぐあとの7月20日である。母のメモの「一ばんはじめは北支応召」と書いてあった処だ。まだ結婚前である。「上海敵前上陸」の著者三好氏は、同年8月に招集で上海に向かったのだ。まさに同じ時期に父は、北支にあって戦っていたのだ。

 第一冊目の「陣中日誌」という表題のついた手帳は、昭和13年の1月17日から始まっており、途中でぬけている時もあるが、11月4日で終了している。自動車部隊として、大雪に会ったり、3月13日には、迫撃砲、手榴弾、機銃等で奇襲を受け戦闘約4時間、4名の同僚が戦死している。戦死者は火葬にされ、父は戦死者の位牌を書いている。

○ 3月20日

所隊ハ車弐十両、矢後隊六車両焼却ス 援護ノ歩兵部隊は全滅ス(五十名戦死百名位ノ負傷)所隊十名の犠牲者ヲ出ス

○ 3月29日

六時半 村野部隊及宮本部隊約177車両ニテ歩兵2ヶ中隊工兵1ヶ小隊ノ援護ニテ、敵陣ヲモノトモセズ通過ス 敵約三千名見受ケル

といったように、平遙、介休、太原と云った地名が出て、あちこちに移動露営をしたようだ。

 第二冊目は、16年の2回目の召集が決まる前の簡閲点呼から始まっている。友人知人が召集を受け、母と万一の場合を考えて、眠られぬ夜があり、そして勤務先の建築現場(父は建築会社に勤務していた)で兄から召集令状を持ってきたという電話を受ける。出征の挨拶をすませ、夜母が涙を出すが、出発の朝は、

「さと(私の母の名)モ全ク覚悟ガ出来タ様子。涙一ツ出サズ隊マデ見送ラル 前回と違イ万歳ノ声一ツナク 非常ニ気軽ナルモ淋シサヲ感ズ」と記している。

 そして瀬戸内海を航行、大連、牡丹江、白門子と移動。途中、カケ麻雀の嫌疑をかけられ心を痛め、ビンタに不愉快な思いをし、12月8日は「英米国に対シ宣戦ノ詔勅下ル」と記し、隊内の興奮振りを伝えている。

 満州から南方に移動となり、台湾、フィリピンを経て、3月1日ジャワ敵前上陸をする。前日の日記は次のように書かれている。

  最初ノ大キナ空爆ヲ受ケ強力ナル威力ノ爆弾ニ見舞ワレ乍ラ、昨晩ハ十日月位ノ良イ月夜ヨヲ眺メ乍ラ故郷ヲ偲ブ時 急ニ遺言状マデ稿メタクナル ソレデ母上ノ事ヲ子供ノ事、妻、将来等今ニナッテ色々ト心配ス  2月28日 11時


 日記を原稿用紙に書き写してみたら、800字詰め原稿用紙で143枚となった。私は、この日記の空白の時を穴埋めすべく、今「大東亜戦史ジャワ作戦」(陸軍省企画、昭和17年刊)や蘭印諸島(福島種経著、昭和17年刊)を読んでいる。

 現在の我々は、平和で安逸な生活に埋没してしまっているのではないだろうか。戦後四十年を過ぎ、戦争体験をまとめた出版物は減少し、また以前出された好著でも新刊書店からは姿を消してしまっている。古書店でも見つけにくいのが現状だ。

 このままでは貴重な戦争体験が風化されていってしまうのではないだろうか。私は戦争という凄惨の極みの中の記録から強く生きる勇気、生への執念を学んだ。これからも、現代史を知る意味で、昭和の戦争記録を読み続けたいし、かつ後世の世代に正しく語り伝える義務を痛感している。

                          日本古書通信 1987年7月号

2006.08.27
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